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昨日、3月10日、名古屋高裁金沢支部で「七尾強制連行訴訟」の控訴審判決がありました。
「強制連行、強制労働の事実を認めたものの、一昨年の金沢地裁判決と同様、原告の訴えを退ける不当な判決が言い渡されました。
「甚だしく人倫にもとる行為」とするものの、2007年4月、最高裁が「1972年の日中共同声明により、中国人個人は日本に対し戦争被害について裁判上、賠償を請求できなくなった」との判断がふたたび示されました。
また、それに先立つ3月8日にも、名古屋高裁金沢支部で、第2次不二越訴訟判決が、国と機械メーカー不二越の責任を認めたものの、個人の請求権を認めていない日韓請求権協定を理由に、請求権を棄却していました。
これらの判決は、個々の事実関係を認めながらも、日中共同声明や日韓請求権協定によって、損害賠償を認めない、請求権を認めない、という構造になっています。
先の田村光彰さんの裁判でも、不当解雇という事実関係は認めながらも、慰謝料は認められませんでした。
一歩前進、しかし、体は一歩も前に進んでいないという状態です。
この、事実関係は認めるが、補償、慰謝料は認めないという構造がまかりとおるのはどうしてでしょうか。
多分、「金を支払う」ことと「体面が潰される」事が、同次元の関係であり、とりもなおさず、この国の最高の価値は、「お金」なんだということだと宣言しているのだと思われます。 共同声明や協定は、その方便としての役割しか与えられていない。理性によって選択可能な判例の上位に「金」と「対面」があることがこの国の今のありようのようです。選択可能な判例が無数にあっても、それを選び取れないようです。
さて、そこで、思い出すのは、最近の「密約」をめぐる論議のありようであり、沖縄の米軍の移転をめぐる論議です。
密約問題の本質は、「国益を守るためには、自国民や他の国に対して外交交渉のすべてを明らかにできない」という論理の展開にあります。何かを守るために、許される事態が存在するという論理のありかたです。序列の下位にあるものがその上位のものを存在させるために「我慢」する、それが、秩序維持のための知恵である、という論理です。
国民あるいは市民という主体が、国あるいは官僚組織という機関の維持のための道具にされている。別の言葉で言えば 支配される、また支配するということが絶対的なものであるという認識の現れです。民主主義という言葉を使いながらも、それに拠らない力のあり方を認め、かつ、それこそが、共同体のあり方の基本であるという認識であす。エリート官僚が指導する国家や共同体が絶対優位な存在であることの宣言です。
米軍、あるいは、アメリカという国家によってこの国を支配のしてもらうことが、最上位の価値であるという宣言です。
そのような価値観から沖縄は今も支配されています。
一刻も早くそのような状態から脱却したいものです。
アジア共同体をつくるために!
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