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小木曽美和子さんを偲んで 海渡雄一     くるま座事務局 : 2012/06/25(Mon) 07:23 No.268  HomePage
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さる 海渡です。
悲しいお知らせです。

小木曽美和子さんを偲んで
 もんじゅ訴訟原告団事務局長であった小木曽美和子さんが亡くなられました。
76歳だったそうです。
 小木曽さんはもともと新聞記者をされていましたが、労働運動を経て福井県評
で働かれるようになり、1976年の原発反対福井県民会議の設立から活動に参
加されました。私が最初に記憶に残っているのは、1982年5月の『反核・平
和のための東京行動』のとき、福井県評青年部の「もんじゅ公開ヒアリング阻止」
を訴える特大の旗の前で必死に訴えられていた凛々しい姿です。小木曽さんは小
柄でしたが、演説は本当に迫力があり、美しかったです。
 もんじゅの原子力安全委員会公開ヒアリングは、この年の7月に敦賀市文化セ
ンターで開かれました。全国から集まったデモ隊の数は一万人を超えたといいま
す。昨年12月のもんじゅ現地集会に参加した帰りに、声をかけてくださった参
加者も、この闘争に加わっていたと話されていました。公開ヒアリングの阻止闘
争は、今も参加者の胸に生き続けていたことを確認できました。
 私たちが訴訟の依頼を受けたのは1984年の秋のことでした。裁判が200
5年に終わってから、小木曽さんに、この訴訟の提起についてはいつ頃話が始まっ
たのかを聞いてみたことがあります。もんじゅ訴訟は1984年の夏の原水禁大
会で、小木曽氏と高木仁三郎氏の会話から始まったようです。私は、当時弁護士
歴わずか3年目の新米弁護士でした。当時原子力資料情報室の代表をされていた
高木仁三郎先生から、「もんじゅの訴訟をやることになったから、弁護士を集め
てくれ」と依頼されました。知り合いの東京の弁護士達に連絡を取りながら、こ
の年の秋に弁護団長になって頂いた福井県弁護士会の福井泰郎弁護士と日弁連人
権大会の会場でお会いしました。このときから小木曽さんは訴訟準備の中心でし
た。弁護団を福井と東京の二元構成にしたもんじゅ訴訟弁護団の結成と、もんじゅ
訴訟の提起が住民団体で正式に確認されたのは、1984年10月のことです。
 訴訟の依頼を受けて、この新しいタイプの原子炉の持つ危険性の調査と合わせ
て、最初に頭を悩ませたことは、どのような類型の訴訟でもんじゅの安全性を問
う裁判を提起するかでした。依頼の時点で、すでに取消訴訟の提起期間は経過し
ており、行政訴訟としては無効確認訴訟しか提起できない状態だったのです。提
訴前、原発訴訟の主流は伊方原発、東海原発などの取消訴訟であり、取消訴訟の
期間が経過してしまっていた女川原発事件については民事差止訴訟が提起されて
いました。我々は、この全く新しいタイプの原発については、民事差止の訴訟だ
けでは不十分であり、国の行った安全審査の適否についてについて議論できる場
が必要だと考え、激論の末、原発設置許可の無効確認請求と民事差止請求の訴訟
を併合して提起することとしました。追加した行政訴訟で後に勝訴できたのです
から、この討論の過程が如何に大切なものだったかがわかっていただけると思い
ます。
 また、小木曽さんは、当初から原告団については超党派的なひろがりを大切に
されていました。この運動センスの良さも、この活動が長続きし、成功する大き
な要素だったと思います。
 プルトニウムを燃料とする高速増殖炉という国策の中心に位置づけられていた
原子炉に闘いを挑むにあたって、提訴直前の集会では、小木曽さんは「事故の危
険性は国の将来を左右する。15年は覚悟し、長期裁判を闘い抜こう。」と悲壮
な覚悟を呼びかけられました。1985年4月25日の第1回口頭弁論で原告団
代表の磯辺甚三氏は「科学よ、おごるなかれ」と叫び、小木曽さんは原発集中立
地県である福井県にもんじゅを設置することの危険性を訴えられました。そして、
その翌日にチェルノブイリ事故が世界を襲ったのです。

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